関西やんぼし会の歩み
【設立】 2001年2月17日
【会員数】 270名
【参加資格】 熊本県立(旧制)大津中学校、大津高等学校卒業生並びに教職員
【活動内容】 会員相互の親睦 ・ 母校の活動支援 ・ 郷土の行事、情報収集と会員への伝達
【入会方法】 鷹揚会同窓会(上部団体)会員は自動入会
〜やんぼしづかの由来〜
約420年前、大津一帯は合志一族が支配していた。
大正13年(1585年)9月1日、侵入してきた薩摩の島津勢との戦いで、大津が主戦場となった。
この激戦で亡くなった敵味方の武者達を里人が合葬し、阿蘇防中の修験僧(山伏)によって、修祓した墳墓を祀り、楠を植え、星霜を経て無縁の塚となり、名も山伏塚(やんぼしづか)として今も伝えられている。
平成3年熊本県(環境保全課)で発行された「くまもとの樹木たち」という出版物の中で、母校の校庭脇にある山伏塚が写真とともに、次のように紹介されています。
『校庭の一角にあるムクノキなど四本の老樹が繁る。戦国の血ぬられた歴史を秘めるが、生徒らにとっては「やんぼしづか」と旧制中学の昔から、心の記念碑、そして憩いの場として今も大事にされている』
【第7回 会報紙】 旧制中学19回 昭和21年卒 合志 至誠 様 投稿記事(原文)より
〜山伏塚(やんぼしづか)〜
大津高校の体育館脇にある山伏塚の由来は、高校三回卒阪本義信氏によると、天正13年(1585年)に遡る。
戦国時代、薩摩を本拠とする島津氏は九州制覇をもくろみ、東嶽城(現大津町日吉神社の社地)などの当時大津・菊陽を支配している合志氏の防御戦を突破。
白川を越えた島津軍との激戦は、現菊陽町中心に繰り広げられ、おびただしい屍を残し、島津軍の勝利に終わった。
戦いが終わり生き残った里人は、敵味方にかかわらず厚く埋葬し、阿蘇の山伏に供養を頼んだという。
恩讐を超えた里人の思いは、今も山伏塚として大津高校の校庭にひっそりと時を刻んでいる。
山伏塚の名は、大津高校同窓会「関東やんぼし会」「関西やんぼし会」「福岡やんぼし会」にとどめている。
また、山伏塚を抱くように広がる大椋は、大高生の憩いの場を提供し、その活躍を山伏塚とともに見守っている。
【熊本県立大津高等学校 ホームぺージ】より